あんこさんが暮らした日々を辿る

元町界隈を巡りながら、かつてアンコさんが暮らした日々をたどる「元町ぶら散歩」。
伊豆大島アンコ文化保存会の清水さんにご案内頂きながらのんびり散策しました。こちらに掲載の内容はダイジェスト版でお届けしています。実際に散策される際の参考にご覧頂ければ幸いです。

いしぶみに刻まれた人々(長根浜公園)

まず最初に訪れたのは、1986年(昭和61年)の噴火の際に、地下水がマグマの熱で温められて湧き出た温泉を利用した温泉施設「浜の湯」などがある長根浜公園。大島はかつて流人の地として、その後は多くの芸術家達の愛した島として知られ思い出も随所に残されています。

例えば、大島観光の先駆けをなした人とも言われる藤森成吉は20歳の頃、大正2年の夏に大島に来島し、元村(現在の元町)の千代屋に泊まり、その体験を題材に書いた小説「波」(のちに『若き日の悩み』と改題)を出版。当時、小説を読んで影響を受けた若者達を中心に伊豆大島へ旅行をするブームも起こったようです。そんな「若き日の悩み」の文学碑があります。

藤森は「若き日の悩み」の中で、「大海の中の島へ行くんだ。未だ見ぬ島へ、桜と椿との島へ、牛の遊んでいる島へ、髪の長い強健な女の群れてる島へ。」と記していて、逞しく地道に働いたアンコさんの土着的な姿と絶えず噴煙をあげる火山の原始的な景観が広がる離島、大島に感銘を受けて「大島よ!君はいつ迄その姿に留まるか?」と言葉を残しています。

他にも、保元の乱に敗れて捕らえられ、大島へ流された鎮西八郎源為朝の事績武勇を称賛した記念碑が建っています。これは大正八年に建立されたもので、今では風蝕によりすっかり判読できなくなっていますが、新たにその内容を伝える看板が設置されており確認することができます。

源為朝といえば、弓の名手として知られ、大島に流されてきてからは大島を含む伊豆七島を支配しました。居所であった場所には為朝だから故に許されたという通称「赤門」と呼ばれる格式ある朱塗りの門が建ち、今も元町内に残っています。

昔、為朝が島の娘との別れを惜しんで、自分の着物の片袖を破って娘に渡したそうで、それを娘がとても大切に被ったのがアンコさんの特徴でもある被り手拭いの始まりとの説があります。

アンコさんをより際立たせた火山の島

長根岬は1338(延元3)年の大噴火で溢れ出た溶岩が溶岩流となり、沢を伝わり海岸に流れ込んだ跡。現在の姿から当時の地形は今より100mほど沖合までが陸地だったことがわかります。柔らかい土壌は波に削られ、硬い溶岩だけが残りこのような姿になりました。火山島ならではの地形と打ち寄せる波が長い時間をかけて削り形成された現在の姿、そんな伊豆大島ジオパークならではの地球の物語を感じさせてくれる景観も見ることができます。

アンコさんの大切な仕事「水汲み」

元町港周辺は今ではすっかりコンクリートで整備され、アンコさんが過ごした日々に見た景色とはだいぶ異なっているのでしょうが、それでも、写真と見比べてみると何となく面影は残っている感じ。当時そんな海岸沿いでは、内地からの船便による物資の積みおろしの荷役も「手間」と称して全て女性であるアンコさんの労働で行われていました。

とにかくアンコさんはよく働きました。

そんなアンコさんの日課となっていた仕事に朝と夕の水汲みがあげられます。元町が位置する西海岸は耕地には恵まれていましたが、火山島故に保水性の乏しい土壌から水は少なく、元町あたりでは海岸にハマンカーと呼ばれた深い井戸を掘っていました。この井戸の水には塩分が少し混じるので完全な真水ではなかったのですが、それでも貴重だった水を汲んで頭にささげて大切に運びました。

アンコさんの特徴的なスタイルである頭に手拭いを被り、その端から艶やかなさいそく髷のタブをのぞかせて、身にまとった紺絣に、前垂れの繻子紐(しゅすひも)をきりりと締め上げたアンコさんの姿は、その頭上に桶などの物を載せて運ぶ習俗とともに、島に一層の情緒を加えていました。

このアンコ風俗は、四方を海に囲まれた火山島の独特な雰囲気とともにエキゾチックな情緒をたたえ、多くの文人墨客を惹きつけました。豊かな自然と素朴な島娘の佇まいが大島を魅力的な島に仕立て上げていたのです。

当時の雰囲気が残るまちなみを求めて

元町地区は昭和40年に発生した元町大火により大部分を焼失してしまったのですが、南側は焼失を免れて今でも当時の面影を残す界隈があります。当時は今よりも道幅が狭く、すれ違う際にぶつかるほどの幅だったようです。そのような事情もあって頭上運搬は効率的で理にかなった運搬姿勢だったのです。住居は黒板の外壁、船底天井、曲がり梁などの特徴的な古民家の造りがみられました。

観光の島「大島」への原動力

北のハマンカーから登る石畳の道が特徴的ですが、こちらは吉谷神社への参道。1964年の東京オリンピックによる道路整備のために撤去された都電の敷石を使って作られました。その参道を登り吉谷神社へと向かいます。

吉谷神社前の広場には観光大島の礎を築いた林甚之丞の碑があります。
昭和3年、すでに消えつつあったあんこ風俗に対して「小粋に被った手拭いの中から、滴るような黒髪のサイソク髷が、覗くようにはみ出し、紺の香りのする木綿絣の筒袖を着てつつましやかな前掛をしたアンコ風俗は、大島のシンボルとして復興させなければならない。」と東京湾汽船専務の林は、アンコ風俗を復活させ観光に活かそうと考え「営利目的の事業でも、地域の開発と共に有ってこそ有意義である」と木綿絣1,000反を島の旅館や土産物店に提供すると、島の人たちも喜んで協力したそうです。昭和4年、当時の新造船菊丸が就航し、同年天皇陛下行幸と相まって大島の観光は大きく動き始めました。

参考:「東京都大島町史 民俗編」、「伊豆大島文学・紀行集 紀行記編」、「東京の島 伊豆大島アンコ風俗」、「林さんと大島」

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