そのむかし、まだ薪(まき)が燃料の主流を占めていた時代、船で大量に江戸へ送ることができる大島は優位な立場でした。そのため男たちはもっぱら廻船の仕事や漁業に従事しており、島の中の仕事を担うのは主に女性たちでした。
とにかく島の女性はよく働きました。娘の頃から家事から野良仕事まで忙しい毎日を過ごしていました。起床すると洗面後手ぬぐいを被り、一度被ったら入浴・就寝まで基本的には外さず、家事や庭前での仕事や作業を行ないました。
火山島ゆえに湧水に恵まれず川もない島の生活では、水は生命に関わる貴重な資源でした。そのため、水汲みは女性の最も大切な仕事とされました。家の土間の隅に、“カメノコシ”と呼ばれる一郭が設けられていて、板で囲われ、上はめくり板で覆われ、中に飲料水・雑用水入りの二つの水瓶が据えられていました。女性たちはこの水瓶にわずかな水源や海辺で塩分の強いハマンカー(共同井戸)から、せっせと水を運び続けました。
大島では畑も山林もヤマと呼びました。ウイヤマ(上の山)と呼ぶ三原山の山腹で、牛の飼料にする萱などの野草を刈ったり、燃木拾いをしたり、椿の実拾いなどの作業を行いました。雑木林の中での作業となるため、手甲・脚絆に藁草履と手元足元を固め、被り手ぬぐい・前垂れは予備を合わせ纏いました。予備ははんこたんな(東北地方南部で農作業時に顔に被る布)のように被り、頭上運搬の土台としたり、藪の中で顔などに傷を受けるのを防ぎました。
また、「手間」と称して、船便による物資の積み下ろしの荷役もすべて女性の労働で行われていました。具体的には帆船に薪を積み込む作業のことを「手間」と呼びました。海岸から船まで20〜30メートルの桟橋を14,5歳〜35,6歳くらいまでの女性が数十人一列になって、頭上に積み重ねた薪を載せて船中へと運びました。日によっては4,5艘も同時に来ることも多く、村中の女性総出の賑やかさでした。
このような多くの人々が集まる場所は、公の場でありハレの場として、女性たちは新調のものを着用し、晴れ着用の前垂れや襷、手ぬぐい等も新しいものづくめで臨んで、その美しさを競い合ったのだとか。
ここであんこさんのスタイルについて見てみましょう。
まずは髪結です。既婚者は「インボンジリ」と呼ばれる結びを、結婚期を迎えた未婚者は「サイソクマゲ」と呼ばれる髷を結びました。この髪の上に手ぬぐいを被り、帯や下帯をしめず、前掛けの紐を二重にまわして前に結びました。
頭に被る手ぬぐいは、椿の花があしらわれたものなど様々ですが、古くはソーメンシボリと呼ばれる濃い藍色の養老絞りがあり、言い伝えによると、その昔源為朝から賜った烏帽子が変化した礼装用の被りものと言われています。また、流水や水に可憐な菊花や蝶、そして魚などをあしらった単純な絵柄が白く染め抜かれています。このソーメンシボリ、天皇陛下の前でも着用を許されたほど。島の女性にとって特別なものだったと想像できます。
厳しい離島での生活の中で、たくましく、しなやかに、そして美しく生き抜いたあんこさん。
椿油をつけた長い黒髪をインボンジリに結び、濃紺のソーメンシボリの手ぬぐいを被る。真っ直ぐな姿勢で凛と佇む姿や、頭に桶をのせて軽く腰を捻りながら歩く姿、あんこさんがいた風景は火山島の独特な景観とともに大島をより一層魅力的に映し出していたことでしょう。
暮らしを支え、島を支えたあんこさんの日々、忘れてはならない島の大切な宝物です。
参考:「東京都大島町史 民俗編」、「伊豆大島文学・紀行集 紀行記編」、「伊豆大島文学・紀行集 絵画編」、「東京の島 伊豆大島アンコ風俗」