静寂と柔らかい光に包まれた伝説の舞台
波治加麻神社(はじかまじんじゃ)は泉津集落から大島一周道路に沿って都立大島公園方面へ進み、バス停「椿トンネル」よりさらに徒歩10分程行くと、波治加麻神社の文字が入った看板が目に入ります。右手にはゆるい上り坂が続く道があり、その道の先へ進むと鳥居が見えてきます。
参道の左右には杉の大木が整然と真っ直ぐ天に向かって林立し、薄暗い中にも木々の間からやわらかな陽光が差し込み、周囲の静寂とともに何とも神秘的な雰囲気を漂わせています。
伊豆諸島の生成伝説を伝える「三宅記」によると、伊豆諸島をつくったとされる三島大明神には五人のお后があり、大島に置かれたお后は「波浮の大后」といい、波浮大明神の祭神「波浮比咩命」とされています。この波浮比咩命と三島大明神の間に生まれた二人の王子が「太郎王子おおい所」と「次郎王子すくない所」で、「太郎王子おおい所」は野増にある大宮神社の祭神。そして、「次郎王子すくない所」が波治加麻神社の祭神であるといいます。
また、後述しますが、ここ波治加麻神社は「日忌様(ひいみさま)の伝説」の舞台としても知られています。
ハジカマ(ハチカマ)の名の由来について
ところで、「ハジカマ(ハチカマ)」という社名、聴きなれない響きで珍しいですよね?
ハジカマ(ハチカマ)の由来を調べてみると、過去の文献より「ハチ」は地名を表し、今も「波治ノ尾」という小高い峰が存在することが根拠となっています。それは神社の後方にある小高い峰「蜂の尻」のことと考えられており、「ハチ」を高峰、「カマ」は「之間」と解され、「ハチ・ノ・マ」であり、「高峰と高峰との間」との説があるようです。
一方で、「カマ」に「竈・釜」の字をあてていることに注目すると「ハチカマ」は「高峰の竈(釜)」となり、火口を意味するとも考えられているようです。
日忌様(ヒイミサマ)の伝説
ところで、泉津には今も伝わる「日忌様(ヒイミサマ)」という伝説があります。
昔、泉津(波治加麻神社のある集落)に暴政を行う代官がいて、村民の反感をかっていました。あまりのひどさに義憤に燃える若者25人が意を決して代官を打ち殺し、その夜のうちに波治加麻神社の大木を切り倒して丸木舟を作り、大島を逃れました。利島、新島を経て神津島にたどり着きましたが上陸を許されず、ついに、波間を漂い、行方知れずになってしまったといいます。
それから毎年1月24日の夜中にこの若者25人の霊が五色の旗を押し立てた丸木舟に乗って、泉津の沖にあらわれると言い伝えられ、村人は毎年1月24日の夜には儀式を整え、日忌祭を行い、若者25人の霊を祀る風習が伝えられています。
その風習の内容は、22日に餅をつき、25個の丸いお供え餅を用意します。24日には家の内外を念入りに掃除し、「アラスナ」と称する浜からとってきた小石を玄関の左右に置き、庭を海水で清め、また家の周りの節穴には「トベラ」、「ノビル」をさし、戸口には鎌や鉈などの刃物が置かれました。一方、屋内では神棚の下に25個の餅がノビルやトベラ、アラスナと一緒に供えられました。当日の夜は、一切外出せず、海を絶対に見ることなく静かに過ごし、無事に25日を迎えると25個の餅で雑煮をつくり祝うというものです。
泉津の集落のはずれにひっそりと佇む波治加麻神社は今も語り継がれる伝説や風習とともに、長い時を経てゆるやかに変化を積み重ねる自然の力強さと、代々この地を大切に守りぬいてきた人々の想いが交差する静かな場所。そんな場所に身を置き、自分を深く見つめなおす時間を過ごしてみるのも良いかもしれません。
※参考文献:東京都大島町史(民族編)、伊豆諸島・小笠原諸島民族誌
波治加麻神社
Information
波治加麻神社
〒100-0103
東京都大島町泉津48
(バス停「椿トンネル」より徒歩15分)